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「たろう」 

私は西川口に引っ越す前、新宿の中井というところに住んでいました。そこでも雨の日にずぶぬれになって人の後をついてきたノミだらけのサバトラ猫を拾い飼っていました。「たろう」という安易な名前をつけられたその猫は、子どもの頃から動物は大好きだったのに団地だったから飼えなかった私にとって、最愛の友達になりました。
 彼のすごいところは、もともとがノラなので、私と一緒に出勤して私と一緒に帰ってくるところでした。中井は坂の多い町で、うちも坂のてっぺんにありました。出掛ける時は一緒に坂の下まで歩いていって、彼のテリトリーぎりぎりのところに来ると、ひとこと「にゃーん」と鳴いて私を見送り、姿が見えなくなると脇の塀をのぼってどこかへ行きます。で、私の帰り道、坂の一番下から鍵をジャラジャラ鳴らしながら昇ってくると、その音を聞きつけて、塀の向こうの遠い方からかすかに声が聞こえてきます。その声がだんだん近づいてきたかと思うと、塀の上に「うにゃにゃ!」と言いながら出現するのです。
 
 こいつのエピソードは一杯あります。
 いじめ猫にいつも追い掛けられて樹の上に避難して降りられなくなったり、そのわりにはいじめ猫主宰の暴走族に入っていて、20匹位の猫と一緒に「うにゃうにゃ」言いながら私の前を走り抜けたり(でも走っていたのは一番最後だったけど)……

 また家は同じ形のアパートが2軒並んでいるその2階だったのですが、ある日窓から向かいのもう一軒のアパートを見ていると、ちょうど間取り的に家と同じ所の玄関の前に「たろう」が座って中に向かって鳴いていました。私はてっきり「たろう」はうちと間違えているのだと考え、内緒で飼っているから大きな声も出せず、ホイスパーで「たろう……、たろうこっちだよ……」と身振り手振りで教えているのですが、彼は気づきません。しかしそのうち、玄関が開いて中から若いお姉さんが何やら違う名前を言いながら「たろう」を家の中へ迎え入れるではありませんか? そうです、こいつは家の子でありながらそこの家の子でもあったのでした。

 きわめつけは階下に住んでいたかわいい白いふさふさメス猫のことです。近所の猫たちのアイドルだったのですが、当然いじめ猫も彼女をねらっていて、いつも周りをうろうろしていました。 
 ある日、ふさふさ猫のお腹が大きくなっていて、ふさふさの飼い主の人から「たろうちゃんじゃないかしら?」と言われました。でも、うちでは大きな顔して寝てるけど一歩外に出たらいじめ猫を恐れて私と一緒にしか歩かなくなっていたフヌケたろうに、そんなことが出来るはずはないと、言下に否定しました。
 ところが……
 産まれた4匹の猫たちは、模様はサバトラ、額のMは太郎そっくり、どう比べてもイジメ猫の子ではありませんでした。フヌケだとばかり思っていた我が子は、しっかりとやることはやっていたのです。母としては少なからずショックでした。
 「やっぱりね……」という感じの階下の人にエヘラエヘラ笑いをするしかない私……、「たろう」はいっちょ前に親面してしっぽで仔猫と遊んでやったりしてました。
 そんなこんなをしているうちに、大家さんにバレて、白ふさふさ猫と子どもは貰われていってしまいました。責任を感じて私は餌を差し上げたりはしましたが、それっきりになってしまいました。
 
 仔猫と白ふさふさがいなくなった後、「たろう」がどんな感じだったか、実はあまり覚えていません。半ノラだった「たろう」はその前からも鍵を鳴らしても帰ってこない日があったので、1日2日帰らなくてもあまり心配しない時もありました。

 確かその後、キンダーの第4回公演「赤城の空に雪が降る」の稽古で修羅場になり(この頃から座付き作家原田の遅筆が始まったりしたので) 、家に帰るのがとても遅くなる日が続きました。本番直前、「たろう」が何日も帰ってこないことに気づき、やっと心配になってきた私は必死になって坂の下から鍵を鳴らしながら登ったりしてみたのですが、「うにゃにゃ!」という声はついに聞こえませんでした。
 
 公演が終わり、捜索の日々が始まりました。うちの下は環六だったので、まさかとは思いましたが環六を渡って向こう側も探してみました。が、3ヶ月たっても彼は帰りませんでした。

 よく「一年後に戻ってきた」とか、「引越先から昔の家に帰っていった」とかそういう猫のエピソードを聞いていたので、期待しつつ待ってました。猫の使っていた茶碗を伏せて唄を書いて置いておく迷信みたいなのとか、「たろう」の好きだったねこじゃらしを玄関に吊るしたりとか、いなくなった当初に何も出来なかったことを償うように色々やってみましたがダメでした。

 半年後に西川口の稽古場が見つかり、やはりそちらに引っ越した方が何かと便利だったので、「たろう」のことを気にしつつ私は西川口に引っ越しました。今度のところも勿論猫なんか飼ってはいけないマンションです。もう飼わないだろうな……となんとなく思ったりしてました。

 1年後ぐらいのことです。ネヴュラプロジェクトという、芝居の人はよくご存じのちらし代行サービスをやっている団体が当時中井にありまして、そこに寄るついでに久しぶりに中井の町をぶらぶらした時のことでした。
 
 歩道橋の下に「たろう」がいました。
 よく、「運命の出会い」なんてのがありますけど、ドラマじゃあるまいし、そんなに「運命の出会い」がちょくちょくあるわけはありません。でもこの時私は「これは運命の出会いだ」と感じました。胸が熱くなって、目がうるうるして、喉がつまって声が出ませんでした。近づくと「何?」というカンジで私の方を見た「たろう」。
その目は全然私を懐かしがってないし、「あんまり近づくと逃げるぞ」という警戒心ありありの様子でした。「そうか、そうだよな、あれから1年も経っているんだし、たろうにだってたろうの生活があるんだ。もともとノラなんだから、また他の人に飼ってもらっているのかもしれないし。何より元気でよかったよかった。」私はひとりで感慨深く感じ入りながら、自分からそこを離れることが出来ませんでした。
 「たろう」がそこを去ってくれるのを5分ぐらい待ったでしょうか? 「へんな奴……」という感じでよっこらしょと腰を上げ、ようやく「たろう」はその場を去ろうとしました。
「さよなら……」
 横を人が通っているのに私は、結構大きな声で「たろう」に言いました。「たろう」はちょっとだけ振り向いて、「ふん」という感じで去っていきました。
ところが……

 よくみるとしっぽが……
 「たろう」のしっぽは長くて先っぽがちょっとカギになっているよくシナる尻尾でしたがそいつのはまん丸くてぼそぼその、申し訳程度についているものでした。
「あれっ!?」
 
 猫の尻尾については大きくなってから変形することがあり得るかもしれません。だからそいつは「たろう」だったかもしれません。でも5分間、感激したりうるうるしたりしていた私は、何か拍子ぬけしてしまいました。と同時に「たろう」にそっくりな猫がいるこの町が何か懐かしく、一瞬にして思い出深い土地になりました。

 後日談ですが、「たろう」にそっくりの猫は西川口にもいっぱいいます。
 ……てことは日本中にいっぱいいるってことね……