【劇評】《せりふの時代2008春号》 |
小松幹生氏
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「チェーホフ的チェーホフ」、気になるタイトルである。「的」とはなんだ。 というわけで舞台を見に行くことにする。まだまだ好奇心のつよいわたくしなのだ。と別に威張ることもないか。 チェーホフは、昔から、なんというか、気になっていて、というのも、ぼくが芝居を見始めた三十数年前から、シェイクスピアとともにチェーホフの作品は、毎年のように上演回数が多くて、ようするに人気があったわけてすが、シェイクスピアはどこの劇団がやっても、どんな下手な役者がやっても、それなりに面白いのですが、チェーホフは、上演された舞台を見て、面白いと感じたことがほとんどなくて、なのに、どうしてこんなに人気なんだ、やってる方はほんとに面白いと思ってやっているのか、もしそうなら、どこが面白いと思ってやっているのかが、見てる方にも伝わってこないのはどういうわけだ? 感じ取れない自分がバカなのか、といつも疑問に思っていたのですが、機会があって「ワーニャ叔父さん」「三人姉妹」「桜の園」「かもめ」を日本に置き換えて書き、年に一本ずつですが、上演したことがあって、その後、どうやら、それが勉強になったのでしょうか、あるいは舞台の見方が、そのせいで内輪的に優しくなったということでしょうか、だんだんと、日本で上演されるチェーホフの舞台を見て、腹を立てることは少なくなっているのでした。 と、前置きが長いですね。 今回はチェーホフの戯曲ではなくて小説を脚色して上演。 主に「妻」「中二階のある家」「往診中の出来事」「ロスチャイルドのヴァイオリン」の四本を、順にやるのでなく、細かく切って交互にはさんで四つの物語が平行して進んでいく。その際、「中二階のある家」の登場人物の画家である「私」が、舞台全体の語り手になるような構成を取っていて、これは、黒い壁面と黒い床面で広々とした演技空間を造形した美術(松野潤・石原敬)と相まって、いい効果をあげていた。 |