※ 木洩れ日抄 17 「再生」は可能か?──キンダースペース『河童〜鼻の先の夕暮れ』を観る

山本洋三

美しい舞台だった。楽しい舞台だった。感動的な舞台だった。深く考えさせられる舞台だった。

 原田さんが、次は『河童』をやりますと言ったとき、ぼくは正直とまどった。『河童』を読んだのはずいぶん前のことだったが、それでも、それが容易に舞台化できるような作品ではないことは知っていた。それで、改めて『河童』を読み直してみたのだが、そのとまどいは更に深まるばかりだった。これをどういう芝居にするのだろうか。しかし、とまどいは、また期待も含んでいた。

 しばらくして、瀬田さんから、『河童』のチラシに協力してほしいと原田が言っています。ついては、題字と絵をお願いしたいとの依頼があった。「とまどい」どころの騒ぎではなくなってしまった。字のほうは、『赤い鳥の居る風景』での経験があったから、何とかなるかもしれないとは思ったが、絵となると話は別だ。どんな「河童」を描いたらいいのだろう。

 原田さんからは(直接には瀬田さんから)、いろいろな注文がきた。「オリジナルな絵で」「河童だとすぐにわかるように」「目を描いてほしい」「正面を向いた顔を」「目の片方が何かに隠れている顔を」といった注文にそって、わけもわからず試作を続け、何枚も絵を送り続けた。そうした注文に従って絵を描いているうちに、原田さんがどういう芝居を目指しているのかが、何となく分かってきたような気がしてきた。

 核心は「目」だ。するどく何かを、正面から凝視する目。半分はなにかに隠れている顔の片目。その目は何を見つめているのか。その見つめる先が、舞台に現出することを、原田さんは目指しているのではないか。そんな気がした。けれども、そんな目をぼくの技量では描こうとしても描けるものではない。ただ、「点一つを描くことはむずかしいよ。水滴が岩を穿つように、気を入れて、力を抜かないで、集中して点を打つんだ。」という水墨画の師匠の言葉に従って、目を入れた。紙の上に穿たれた点は、自然に「何かを凝視する目」に変わったように思われた。

 古木さんのデザインで、チラシが出来たのを見て驚いた。それはもう完全に原田さんの『河童』の世界だった。どんな芝居になるのか、まるで知らなかったのに、できあがった芝居を見てしまったような錯覚に陥ったのだった。

 けれども、初日の舞台を見て、ぼくは、ぼくの予想を遙かに超えた世界が広がるのを目の当たりにすることになった。ほんとうに、人の才能というのははかりしれないものだ。誰が、こんな舞台を予想できたろう。今回は、ぼくがいわばスタッフとして最初から関わったこともあって、知人たちに声をかけたが、それに応じて見てくださった方々から、「こんなふうにあの『河童』を芝居にすることができるんだ!」といった感想を聞かされたのも当然のことだったろう。

 竹を編んで作られた幻想的な装置の真ん中に(この装置を作ったスタッフの苦労がしのばれる)、最近進境著しい森下高志演ずる「23号」のシルエットが現れる。一歩前へ出る。この動きが、まるで能のようだ。能舞台は死者を呼び出す場だ。だとすれば、「23号」はシテであり、客席の方から現れるS博士と、その助手「僕」は、ワキだ(正確にいえば、助手はワキツレ)。ワキの問に答える形で、シテは「河童国」について静かに語り始める。こういう意図が原田さんにあったのか確かめたわけではないが、ぼくにはそう感じられた。そしてこの構図は、最後まで一貫していた。驚くべき発想という他はない。

 この森下の語り口には、それこそキンダースペースの俳優達が、長いこと取り組んできた「モノドラマ」の神髄が遺憾なく生かされていて、そういう意味でも、この芝居はキンダースペースでなければできない芝居だったのだ。

 そして、現実世界から異世界への見事な転換。森下の語りによって、舞台に河童たちが登場する場面の美しさには息をのんだ。青い照明、印象的な音楽の響き、せせらぎの音、群生する竹の中に、直立不動の姿勢で浮かび上がる河童たち。その河童たちの衣裳がまた素晴らしい。カラフルでポップでしかもレトロ。どこか大正・昭和という時代を思わせるノスタルジックな感じ。しかも、決して童話じみた河童にはならない工夫。実在しない「河童」の衣裳を、今までのイメージにとらわれず表現するという難しさを見事に克服していた。

そして、こうしたお膳立てのそろった中で、「河童国」のエピソードが、皮肉とユーモアたっぷりに繰り広げられる。世間から逃げて「河童国」へ来たらしい「23号」は、そこもまた人間世界と変わることのない絶望に満ちた生臭い世界であることを知る。芥川が『河童』で描いた子どもの出生にまつわる話や、職工屠殺法の話など、印象深いエピソードが、滑稽にまたグロテスクに演じられるのである。

 キンダーは、今回の公演でも様々な個性的な客演俳優陣に恵まれた。まるで能役者を思わせる(やっぱりこの芝居のキーワードのひとつは「能」だな)阿部百合子さんの抑制された身体演技によってこの芝居の精神性が格段に深まったし、牧口元美さんの円熟した飄々たる演技は、シリアスな場面にも、ふっと柔らかい春のような風を吹き込んで舞台の緊張感をほぐしていた。紺野相龍さんの軽快な語り口は、のっけから観客の予想を裏切る形で、一気にこの芝居のリアルさを保証した。そのちょっとエッチなS博士は、河童の世界では実業家ゲールとして、これまた好色な俗人ぶりを素敵に演じていて、見ていてほんとに楽しめた。その助手を演じた鏡淵だいは、キンダーの若手だが、伸びのある声で、「ワキ」としての役割を見事に果たした。音楽家クラバックを演じた白州本樹さんは、キンダーの舞台でもお馴染みのイケメン俳優だが、ノンシャランでいて繊細な芸術家を、河童特有の(?)くねくねするような手や体の工夫された動きを交えて巧みに演じ、「トック」を演じた荒牧大道さんは、結局は芥川自身を演じるという大役だったが、底知れない心の闇をかかえた作家を、ひとつの表情にも心を配ってきめ細やかに演じた。キンダーの俳優陣も、平野雄一郎は、ひょうきんでいながら革命を目指し、しかもその運動に絶望しているといった複雑な役柄を明るくまたシリアスに演じた。その弟のバッグを演じた林修司は、まだキンダーに入団して日の浅い俳優だが、若さを武器に精一杯の演技で今後が楽しみ。今やキンダーではベテランといっていい深町麻子は、ゲエル夫人ロザリンドを滑稽に演じつつ内面の闇も垣間見せる演技で観客を魅了する。この人の演技はいつみても楽しい。看護婦を演じた榊原奈緒子は、持ち前の色気を前面に押し出す演技で、最初の登場から観客の目を惹きつける。そのうえ、ゲエルとのアヤシイ関係をそれとなく伏線にはり、最後にゲエルにとどめを刺すあたり、妙にリアルで面白い。ペックを演じた高中愛美、リーザを演じた淡路絵美は、それぞれキンダー期待の若手女優。若い女の子のとんがったところを、それぞれの個性で演じて、とてもおもしろかった。与えられた役に悩みながら苦労しながらも真摯に取り組む姿は頼もしいかぎり。若手の俳優たちのこれからの活躍を思うとこころが弾む。長生きしたいものだ。

 さて、休憩を挟んでの後半になると、ドラマは俄然鬼気を帯びてくる。古木杏子演ずる「ヤヨイ」が、作家の「トック」の妻だと言っていたのに、実は、「トック」の生みの親、「トック」が子どもの頃に発狂して死んだ母親だということが判明し、しかも、瀬田ひろ美演ずる「ホップ婦人」が、実は「トック」の育ての親、「ヤヨイ」の姉であり、「トック」の伯母であることが明かされると、古木・瀬田の激しいセリフの応酬となる。このあたりは、それこそキンダースペースの長年培ってきたリアリズムの集大成ともいっていい迫力で、息もつがせない。ほんとにこの二人の女優はただものではない。

 「ヤヨイ」は20年も前に死んだトックの母の幻影であり、実は、姿を隠していたトックが現れた時、そのトックも既に死んだトックの幻影であることが明らかになると、舞台はもはや、生者と死者とが、河童と人間とが、たいして違わない存在、いや、非存在である幻影たちの住処と化すのだ。ここにもぼくは「能」との深い共通点を感じるのだ。

 原田さんはこの『河童』で何を描きたかったのか。芝居の中では「どういう世界にしたいのか」「自分とは何なのか」といった根本的な問が繰り返し問われる。しかしその結論が出されるわけではない。かといって、絶望の内に幕を閉じるわけでもない。ただ、「現代の問」を鋭く問いかけること、絶望の先にあるものを「するどく見る」こと、できれば、そのとき「見えた」ものを舞台に現出させること、できれば「それ」が「再生」へのきっかけであってほしいという願い。原田さんは言う。「さて、はたして演劇は、これを『再生』の物語として読み取ることができるだろうか。同時に、私たち自身の投影として………」と。

 思い出そう。この芝居の題名は『河童』ではなく、『河童〜鼻の先の夕暮れ』である。言うまでもなく「鼻の先の夕暮れ」とは、芥川の辞世の句と言われる「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」という俳句の引用である。この句は自殺の直前に作られたわけではないが、自殺の直前に短冊に書いて、知人に渡すようにと伯母に託した句なのだ。簡単な句ではない。しかし「水洟」という卑俗なものをとりあげ、もはや自分の存在すらそんなものを垂らす鼻の先だけになってしまった。その鼻の先に、それでも夕暮れの光がわずかに残っている、というようにも解釈することのできる句は、絶望の中に、わずかな希望あるいは再生への願いを込めたようでもあり、絶望そのものの表象のようでもある。

 世界は生きるに値するのか。世俗の価値観は信じるに足りないとしても、宗教、政治、経済、国家、そうしたぼくらが生きる前提となっているようなものが、ほんとうに「ある」のか。それが問われる。原田さんは、「芥川の時代には、まだ自分の外にある客観というものが信じられていた。」とし、ほんとうは「何か別のものなどは、もともとないのである。」と言う。ぼくらの「外」にある「神」とか「主義」とか「思想」は、「ない」ということは、ぼくらは、自分の「外」に、自分とは「別のもの」があることを前提として信じて、そのどれかにもたれかかって生きていくことはできないということだろう。

 それでは、「再生」はどこにあるのだろうか。あるいはどうしたら可能だろうか。

 芝居は、「23号」が「消えた」こと、照明に照らされる「23号」の「いない」椅子を目に焼き付けて終わる。いや目に焼き付いたのは、「暮れ残った鼻の先」だったのかもしれない。その薄れ行く夕暮れの光に、ぼくらは何としても、再生と希望を見いださなければならない。それには、絶望しながらも、水洟を垂らしつつも、自らの「内」に帰っていくしかないのかもしれない。そこに、芥川が見いだし得なかった「神」は、「いる」。ぼくはそう信じているのだが。