劇団俳優座LABO公演 No.19
銘々のテーブル Separete Tables
結城雅秀氏 劇評《テアトロ9月号》
作:テレンス・ラティガン 翻訳:小田島雄志 演出:原田一樹 2005年6月19日(日)〜26日(日) 俳優座5F稽古場
【スタッフ】 作:テレンス・ラティガン 訳:小田島雄志 演出:原田一樹 美術・宣伝美術:宮下 卓 照明:森田三郎 音響:小山田昭 衣裳:石川君子 舞台監督:川口浩三 制作:加藤明子・LABO委員会
【キャスト】 レールトン=ベル夫人:阿部百合子 マシスン夫人:檜よしえ ミス・ミーチャム:青山眉子 メーベル:小飯塚貴世江 ドリーン:生原麻友美 ファウラー氏:松野健一 アン・シャンクランド:早野ゆかり ミス・クーパー:天野眞由美 ジョン・マルカム:加藤佳男 チャールズ・ストラットン:志村史人 ジーン・タナー:古賀勝惠 ポロック少佐:荘司肇 シビル・レールトン=ベル嬢:瑞木和加子
【あらすじ】 イギリス、ボーンマス近くのボーリガード特定ホテルの食堂。このしがないホテルにいるのは老婦人や仕事を引退した者ばかり。 そんなホテルに、ある日元モデルのアンがやって来る。アンはホテルとはまるで雰囲気が違い、身に纏う衣服も上品である。彼女がやって来たのは、このホテルに滞在している元夫のジョン・マルコムに会うためだった。だが、アンは決してわざわざ会いに来たことは言わずに偶然を装っている。ジョンはホテルの管理人ミス・クーパーと親密になっていたが、今でもアンを愛していた。しかし、お互い素直になれず、衝突を繰り返し……。 他の宿泊客にレールトン=ベル夫人と、その娘の内気なシビルがいる。シビルは常に母親の言いなりで、他人と話す時など常におどおどしている。しかし、ホテルの客の一人で元軍人のポロック少佐と話している時は、他人を気にせずにいられる時間だった。 ところがある日、そのポロック少佐が映画館での痴漢まがい行為で警察に捕まってしまう。新聞でその事実を知ったホテルの宿泊客たちは、少佐をホテルから追い出すべきか話し合うが……。 独立しながら相互に関連する一幕物を二つ重ねたダブル・ビルと称されている舞台を、一部と二部を一つにまとめ上げ上演致します。
【パンフレットより】
演出 原田一樹
一般的にラティガンの作品は、オーソドックスなウェルメイドプレイである、と言われています。そしてこのことが作品への評価に比べ、わが国で取り上げられる頻度が欧米よりも少ない理由ともされているようです。
確かに、戯曲の段階ですでに出来上がってしまっているかのように見える作品は新しい解釈や演出のアプローチをしにくくします。また作家自身も言っている「演劇は観客なしでは存在しえず、観客は欲するものしか見ない」という演劇観は、彼の作品を上演する現場の創造性に枷をはめているようにもとらえられます。作家自身がその表現への欲望を押さえてかかることに作品の価値を求めているのであれば、独自の解釈や焦点のあて方に上演の創造的意義を探り出しにくく、同時にこれはイギリスの芝居であり、その生活と文化の蓄積を前提としており、また、同等の演劇的な下地もないわが国で、彼の作品の上演がやりにくい、やる意味を見出しにくい、とされてきたのはむしろ当然のことなのかもしれません。
しかし、これは、本当にそうなのでしょうか?
「銘々のテーブル」の場合、ここで彼が作品の主要なモチーフとしたのは「孤独」ということです。チェーホフの「孤独」でも、イプセンの「孤独」でも、オニールやウィリアムズやオールビーのそれでもないこの「孤独」は、しかし「観客は欲するものしか見ない」という地点から、単に一つのモチーフとして発想され書かれたようには見えません。おそらくここに唯一、この作家のおさえられない表現への欲望があるのです。それは「観客の欲するもの」を描こうとして、同時に「観客の欲するもの」を描くことに最も絶望している作家の「孤独」です。
もちろん、この言い方には演出家の悪意ある深読みがあります。
しかし、この作家が持つ優れた文体、登場人物に語らせる台詞の抑制と、その背後に本人も意図しない本当の欲望を浮かび上がらせる手法で作家自身の言葉を読み解いてみたとき、そこに浮かび上がってくるのは「演劇は観客なしでは存在しえず、観客は欲するものしか見ない」と言う、彼自身の「孤独」に他なりません。
とすれば「銘々のテーブル」を上演する我々のすることは、作家が「孤独」を描く時の「絶望」と「欲望」を舞台に見える形にすることです。ダブルビルという構成も、結局はこの二つを対置してその間に何かを浮かび上がらせる仕掛けなのだと、考えていますし、この方法には生活と文化の蓄積の相違あるいは類似によって左右されない上演の意味があるはずです。
もう一度、今度はこの本の中の彼の書いた台詞から援用すれば、世の中には普通の芝居などありえないのですから。
【劇評】《テアトロ9月号より》
《孤独と不義の代償》
結城雅秀氏
今月取り上げた五作品を繋ぐ要素は「孤独」と「不義」である。孤独の中で不義に時間を費やす人間が支払う代償は大きい。 俳優座LABOの「銘々のテーブル」。テレンス・ラディガンによる一九五五年ウェスト・エンド初演時の作品。上質の英国的性格劇である。皮肉な英国紳士が「日本人に、そういったものが理解できるのかねえ」と言いそうな程、英国的な古典劇である。
これを演出の原田一樹は見事に舞台化した。
偉大な成功をもたらした最大の要因は、全体に漂う孤高の雰囲気と貴族的な物言いである。その意味で、全体の基調を敷いたのは、レールトン=ベル夫人(阿部百合子)だ。同じ状況設定で展開する二つの一幕劇からなるこの作品において、この貴婦人は令嬢を、幕切れの直前まで、完全に統制しているかのように見える。あのゆっくりとした、威厳をもった話し方は周囲の誰をも屈服させてしまう。筆者が若い外交官であった頃には、在外の日本大使館にも、あんな風に語る大使婦人が実際に居たものだ。彼女、そして第二幕で主要な役割を演じる、神経質で、ヒステリックで、可憐な令嬢、シビル(瑞木和加子)が、芝居の基調を設定している。ボーンマス(イングランド南部の海岸)にある、舞台となった小さなホテルの経営者、ミス・クーパー(天野真由美)も、大きな存在感で、自分自身の孤独に耐えつつ、宿泊者の間における人間的集団の形成に努める様子を巧みに演じた。 第一幕は、活躍していたが離婚とともに前科者となり、零落した政治学者、マルカム(加藤佳男)が、このホテルに落ち着き、クーパーと密かな関係を結ぶが、そこにかつての妻(早野ゆかり)が救いを求めにくることから生ずる人間の苦悩を題材としている。加藤は、この微妙な役割を充分に演じており、従来の役柄との比較において新しい境地を開拓したように思われた。モデルであった、かつての妻に「君に関して嫌じゃないのは、その顔を見ることだけだ」と言うあたりが如何にも英国的だ。競馬に熱中するミーチャム(青山眉子)と人の良いマシスン(檜よしえ)も、英国的な中年夫人を好演している。第二幕でも活躍するボロック少佐(荘司肇)も、真剣に苦悩する様が見事に現れており、説得力がある。 美術(宮下卓)は、狭い空間に、ホテルの食堂とラウンジを設定しており、美しくも、孤独な雰囲気を醸し出していた。(六月二一日、六本木・俳優座稽古場)
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