劇団文化座公演123

笑う招き猫

原作 = 山本幸久(集英社刊)
第16回小説すばる新人賞受賞

脚本 = 鳥海二郎
演出 = 原田一樹

2005年7月9日(土)〜18日(月)
六行会ホール



【キャスト】
伊藤勉、鳴海宏明、米山実、小野豊、沖永正志、白幡大介、中村公平
高村尚枝、岩崎純子、五十嵐雅子、小谷佳加、高橋美沙、瀧澤まどか
小林悠記子、長束直子、姫地実加

【あらすじ】
「アカコとヒトミ」は本物の漫才師をめざし、笑いに青春を賭けていた。
二人を温かく見守るマネージャー、テレビのバラエティ番組に進出し有頂天になるお笑いコンビ、金儲けしか頭にないようなプロダクション社長、その存在が濃い影を落とす元女性アイドル……。
そんな一癖ある人間たちとの関わりや様々な出来事が彼女たちの漫才を、そして彼女たち自身を成長させていくのだった。
しかし絶妙のコンビに見えたアカコとヒトミの間にもいつしか微妙な亀裂が……。はたして二人は漫才を続けていくことができるのか?

第16回小説すばる新人賞受賞の同名小説を舞台化。女性漫才コンビの苦労を成長がユーモアと熱気に満ちた文体で書かれたこの原作は、パワフルだがどこか懐かしい、独特の世界をつくり上げています。
脚本は「祭りはまだか」で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞の鳥海二郎。
演出は劇団キンダースペースを主宰、「天国までの百マイル」「田端文士村シリーズ 芥川龍之介篇」と文化座でも魅力的な舞台を創造している原田一樹。
俳優人の漫才も取り入れた、ライブ間溢れ且つ心に染みる舞台に乞うご期待!

【パンフレットより】 

演出 原田一樹

 この企画が決まってから、現在映像で見ることの出来る漫才というものを新旧取り混ぜかなり見た。気付いたことの一つは、面白い漫才というものは舞台であろうと映像であろうと、さほど変わらずに面白いということである。演劇だとこうは行かない。映像で撮られた演劇が生の舞台と伍して面白いという現象は皆無に近いといっていいほどないのである。この違いはどこにあるのだろうか?
 実は、この原作を貰った時には、漫才と演劇の一致点ばかりを見出だそうとしていた。 実際それは、音楽と演劇、あるいは絵画と演劇の比較程に面白い作業ではあったのだが、いざ、演劇の時間のなかに漫才というものを組み込んで、批判性を保ちつつ双方を成立させようとすると、その困難さに気が付くばかりで、それがなぜなのか理解に苦しんでいたのである。稽古に先立つワークショップで俳優たちは、特に配役が決まってからのアカコとヒトミは、自分たちで何本も漫才を作ってきた。もちろん、つけ焼刃で今お笑いの世界で第一線にいる漫才師たちと同じレベルのものが出来た訳ではない。しかし、四、五日に一本のペースでネタを作り稽古をして、クスリとも笑わずにいる演出や制作スタッフの前で懸命に演じるその彼女たちの漫才を見ながら、申し訳ないとは思いつつ、これをこのまま演劇の時間の中に置くことは出来ないなと、そのことばかり思っていたのである。例えば、映像というものを簡単に舞台に映してしまう時の停滞感、演出としての無感覚さと通ずるものをどうしても感じてしまうのだ。映像に関してはもちろん、失敗している例ばかりではない。マシュー・ボーン、コンプリシテやロバート・ウィルソン等々、映像を使用し、舞台自体も映像であるようなすぐれた作品はすぐに思い出せる。では、その違いはなんなのだろうか?
 誤解を恐れずに一言でいってしまえば、空間のとらえ方の違いなのである。
 演劇における舞台というものは、もちろんこれは私見だが、その空間と俳優の演じる役とをどう拮抗させ、戦わせ、時には空間によって個人を押し潰させ、又はその中に解き放つかということにおいて規定されるものなのである。おそらく、演劇の出来不出来の半分はこの空間の規定にかかっている。演劇において、観客は世界を見ているのであって、その世界の中で俳優によって生かされる「役」という人間が、どう孤独で不安で、空間の意味する何と立ち向かっているのか、ということを観るのである。
 漫才の場合は、これを二人の人間の間で行なう。全体ではなく、点から照射される世界なのである。だからカメラはその一点をとらえていれば、例えば演劇の時にクローズアップと、俯瞰のとらえ方と、観客がその一瞬ごとに選んでいる視線に対応する不可能さを問題にしなくていいのである。漫才の持つ展開の飛躍、唐突な設定を可能にする感覚の自由さもここに根拠があるのだ。
 したがって、もし今回、漫才を取り込み、それを生かすという道があるとしたら、それは決して漫才を演劇の舞台でそのまま行なうということではなく、この演劇自体が漫才を体現するということなのである。
 もう一つ、原作の持っている疾走感、作者が自転車の二人乗りのイメージを多用し、路上を出会いのキーにしたのもそこから来ているに違いない、いわば通過する感覚もなんとか体現しようとしているのだが、それは、見て頂いた印象に委ねたい。